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吉野川は、藍の川である。
一般の藍が地藍と呼ばれるのに対して、吉野川の肥沃な土地で栽培した藍に だけ与えられた称号、本藍。その品質において最高峰に位置づけられ、量においても日本一である。藍の原料となるタデアイの栽培から染料の生産、さらに染色までがこの流域で行われ、人々の暮らしを紡いできた。この川こそが、世界に誇るジャパンブルー=藍の故郷なのだ。

藍の不思議に釘付けになる

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 藍住町藍の館。「 うわぁ!」
藍染め体験に訪れた女性グループから感嘆の声が漏れた。初めてその瞬間に立ち会うと、誰しも魔法のように思うだろう。
 藍甕の中の黒ずんだ藍液に浸した白い布は、それだけでは発色しない。最初は茶色っぽく変色し、空気に触れるとくすんだ濃い緑色に。さらに時間を経て乾いてくると、鮮やかな青が現れた。そして何度も染め上げを繰り返すことで、より青く変化する。
 中国の思想家である荀子は「青は藍より出でて藍より青し」と書いた。「青い色は藍から取るが、出来上がった青は、原料の藍よりももっと濃い青だ」という藍の神秘が言わしめた言葉だ。
そもそも原料のタデアイは緑色なのに、なぜ青い色ができるのか。藍は、時を積み重ねて一層美しく変貌するというのも、なかなか魅惑的ではないか。

日本人の魂の色、ジャパンブルー

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 明治初期、日本を訪れた或るイギリス人は、衣類や調度品、寝具など藍染めに囲まれて暮らす人々を見て、その美しい彩りを「ジャパンブルー」という言葉で表現した。藍色と一言でいうが、藍に由来する色は多彩で、ほのかに青みを帯びた白、藍白から、黒っぽい留紺まで、藍四十八色と呼ばれる色がある。たとえば黒に見えるほど深い藍色は「褐色(かちいろ)」と呼ばれるが、「勝色」につながることから、縁起を担いで鎧下は藍で染められ、武家の祝賀にも藍染が用いられた。その一方、安価でどんな繊維も染められるため、庶民から将軍まであらゆる階層の人々が愛用し、次第に藍は日本人の心の奥深く染み込んでいった。

阿波に咲いた千年の色、藍

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 五千年以上の歴史を秘めた藍染が、日本に伝わったのは飛鳥時代。伝承によると、徳島では平安時代初期に藍染が行われたという。
阿波藍(徳島で製造される天然藍染料、スクモのこと)が本格的に市場で脚光を浴びるようになったのは、江戸時代の中頃。綿の普及とともに藍の需要が飛躍的に伸びる中で、阿波の北方といわれる吉野川流域の農村が、日本最大の藍作地帯として名を馳せた。なぜ、徳島が藍なのか。そこにはこの地ならではのお国事情があった。

吉野川氾濫の歴史が阿波藍を育んだ。

 徳島の東西を横切る吉野川は、毎年氾濫を繰り返す暴れ川で、稲刈り目前に台風が壊滅的な洪水をもたらすことから、流域は不毛の地と思われていた。ところが、梅雨前とお盆に収穫する藍は、水害の影響を受けにくい。加えて、洪水は肥沃な土を運び込み、土地枯らしといわれる藍の連作を可能にしたのだ。
 膨大な利益を見込んだ徳島藩は、藍商や藍師と呼ばれる加工業者の強力な後ろ盾となって、藍の製造技術の改良に努め品質向上を図った。その結果、1700年代には阿波藍が市場をほぼ独占するまでになった。まさに、官民一体となって取り組んだ一大プロジェクトだったのである。

豪勢な藍商の面影を残す脇町

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 吉野川の河口から約40km。静かな山間に本瓦葺、大壁造りの重厚な家々が430mの道の両側に軒を連ねる脇町(美馬市)がある。時代から取り残されたように、ひっそりと佇むこの町こそ、現存する資料で判明している、徳島最古の藍の栽培地である。時とともに藍作は下流域一帯に広がり、染め上がりが美しく色が落ちにくい阿波藍は、他の産地の地藍よりもはるかな高値で取引されたという。
 脇町では百を超える藍商人が栄華を極め、家の袖壁に「うだつ」を張出し、財力と家運隆盛を競い合ったという。古き良き時代の面影を色濃く残す南町通りから、路地を抜けて川に向かうと、氾濫に備えた高い石垣と石段、小さな船 着き場の跡が見える。水運に恵まれ、藍の積出し港としても栄えた往時の名残である。有力藍商の中には自前の帆船を所有し、ここから徳島へ、さらに大阪や兵庫、岡山に向けて阿波藍が出荷された。
 エメラルド色の吉野川の水面を、白い帆を立てた幾艘もの船が走る…。そんな輝かしい風景が、この町にたくさんの夢をもたらした日々があったのだ。

 

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